こんにちは、たけしです。
二宮尊徳の仕事で最も有名なのは、桜町領の復興です。
二宮尊徳は時の権力者から命令を受けても、簡単には命令を受け入れませんでした。
そこには、今の時代にも使える仕事を請けるときの秘訣が隠されています。
その秘訣を話す前に、「桜町領の復興」の経緯を見ていきます。
桜町領の復興の経緯とは
桜町領の復興は「服部家の再興」の噂を聞きつけた小田原の大久保公から指示を受けたものです。
小田原の大久保公は後に江戸幕府の老中になります。
これが二宮尊徳の最も困難な仕事でした。
なぜ大久保公は二宮尊徳に困難な仕事を任せたのでしょうか?
そのわけは大久保公と藩内の考えに大きな違いがあったからです。
小田原の大久保公はこういった人でした。
時に大久保公(忠真、天明元年(一七八一)ー天保八年(一八三七)。文政元年(一八一八)老中となる。)は、天下の執権職として、流弊を矯め、汚俗を一洗し、善政を布いて万民を安んじようとの忠心をいだき、社会国家のために心力を尽しておられ、世人から賢明をたたえられていた。
報徳記「小田原候、先生に桜町領の復興を命ずる」より
大久保公は周りから名君と呼ばれていたのです。そのため民間から優秀な人材を登用することを考えていました。
しかし、藩の考えは違いました。
しかし小田原の藩風は、賢愚によらず禄位の高下をもって厳しく区別し、高禄の臣は身分の低い臣を召使いのように見なし、位のある過信は愚か者でもでも人が敬い、才徳があっても身分が低ければ誰もがこれを軽んずるという有様で、太平の流俗が習い性となってしまっていた。藩士の仲間でさえこの通りであるから、下民に対しては問題にならない。
報徳記「小田原候、先生に桜町領の復興を命ずる」より
そのため、大久保公は二宮尊徳の登用を藩で話し合ったとき、藩の人たちはこう答えたのです。
「君命ではありますが、土民を挙げて群臣の上に置き、国政を任ぜられますことは、時勢の許さぬところであります。たとい二宮が賢者であっても、群臣が復しないときは必ず国の災いを生ずることを恐れねばありません。殿には深くこれを御考慮ありますよう。」
報徳記「小田原候、先生に桜町領の復興を命ずる」より
いくら大久保公が一番権力を持っていようと、部下の多くが反対していては二宮尊徳を登用はできません。
そこで大久保公は一計を投じました。
公は、人情を無視することができず、賢者挙用の道のにわかに行われ難いことを嘆息し、しきりに登用の道を深慮された。総じて当時の人情は禄位の高下にこだわり、賢者を貴く用いるしきたりがなかったけれども、他人の功績は認めないわけには行かないから、功ある者に頭の上がらないことは古今の人情である。
とすれば、諸人のちからに及ばない事業を二宮に命じたならば、彼は必ずその功を遂げるだろう。
その功績をもって群臣の偏狭な心を除き、国政を任せたならば、だれが不平を発し得よう。
事は迂遠のようではあるが、完全に成功する道は必ずここにある。
公はこう考えられた。
報徳記「小田原候、先生に桜町領の復興を命ずる」より
*文章は読みやすいように筆者が改行
二宮尊徳は藩の事情からやむなく最も難しい仕事を任されたのです。
どれくらい困難な状況だったかというと、、、
ここに旗本宇津某(釩之助)というものがあり、大久保候の分家で、領邑は四千石、下野の国芳賀郡物井・横田・東沼の三村がそれであった(物井・横田の二村は栃木県芳賀郡二宮町の内、東沼は同県真岡市の内)。
土地が至って瘠せて耕土が薄く、五穀は乏しく、人心もまたこれに準じて、ねじけ、わがまま、無頼遊惰であったから、元禄年中(元禄十三年は一七〇〇)までは戸数数四百五十軒(正確には四三三軒)あったのが、連年離散するものが多く、文政年間に至ってはわずかに百四五十軒(文政四年一五六軒)を残すだけとなっていた。
住民は互に利を争い、争論訴訟の絶えることがなく、ややもすれば血闘するに至った。ゆえに衰貧は極まり、田畑は荒れ果てて茫々たる草原となり、無人の民家はきつね・たぬきの住みかとなるものが多く、収納も昔は四千俵あった(但し元禄十一年、分家の当初から公称四千石よりは少く、享保までの収納平均三一一六俵、金二〇二両余であった。)ところ、わずかに八〇〇俵しか納まらなかった(文化九年から文政四年まで十箇年の平均租入九三四俵、金一三〇両余である。)。
宇津家の艱難も極度に達したわけである。大久保公は深くこれを憂い、この民を導いて農業出精に赴かせ、再復のまつりごとを布こうとして厚く心を遣われ、群臣中から適材と思う者を選んでこの野州桜町興復の事業を任じ、幾千両の経費を下してその成功を促されたが、任命された者も、ひとたび現地に臨めば、あるいは悪賢い者のために欺かれ、あるいはその処置が適正な方法でなかったため、ついに他国へ逃走したり、あるいは住民に逐われて小田原に帰り罪を得たりする者がすでに数人に及んだ。
群臣は手をつかねて、もはやこの事業を引き受けようと言う者がなかった。公は大いにこれを残念に思われ、並大抵の者のなしうるところでないことを嘆ぜられていたのであった。
報徳記「小田原候、先生に桜町領の復興を命ずる」より
*文章は読みやすいように筆者が改行
もう誰もやりたくない仕事だったのです。
この村々を再興することができれば、二宮尊徳を登用することに反論する人は誰もいない。そう大久保公は考えたわけです。
ここから村の再興を請け負う役人として二宮尊徳の本格的なキャリアが始まったのです。
二宮尊徳が仕事を請けるときの秘訣とは
話を最初に戻します。二宮尊徳が仕事を請ける方法を話していきます。
ふつう、時の権力者の命令は絶対です。だから命令を断るなんて考えられません。
しかし、二宮尊徳は時の権力者の命令を断るのです。
それは自分の領分を超えた依頼であったからでした。江戸時代に農民が武士の仕事をやるなんてありえませんから。
それに二宮尊徳自身は自分の畑をやっていれば十分な財を作ることができました。
だから大久保公の使いに、二宮尊徳はこう言ったのです。
「私のような卑しい者にどうしてこのような大業をすることができましょう。私は農家に生れ、極貧の中に成長し、みずから農具をとって農事を勤め、祖先の余徳によって廃家を興すことができましただけで、どうして国を興し民を安んずる大道を知りましょうか。君命は重うございますが、身の至らぬことを省みればどうしてもこの御下命に当ることはできません。」
報徳記「小田原候、先生に桜町領の復興を命ずる」より
二宮尊徳が言ったことはもっともなことです。
ただの農民に過ぎない自分に村の再興を依頼するのは筋違いと言えます。
秘訣は自分に合わない仕事は断ることです。
そして、ここからが面白いポイントです。
二宮尊徳の断りに、大久保公はへこたれなかったのです。
なんと3年間も使いを出して、ついに二宮尊徳を口説き落としたのです。
二宮尊徳も条件を付けて依頼を受けました。
それは仕事をする村々の現地調査して、復興が可能かどうかを確認してから仕事を受けるか決める、という条件でした。
二宮尊徳は何度も断ることで、自分が仕事を請けるときに有利な条件を得ることができたのです。
というのも、最初の命令の時点で仕事を請けていた場合、仕事は大久保公の要望通りにやることになっていたでしょう。
二宮尊徳は損な役回りから上手く良い条件を得たのです。
二宮尊徳が利用した「希少性」の原則について
二宮尊徳が希少性の原則を意識していたかはわかりません。
しかし、報徳記の記述を見る限り、二宮尊徳のやり方には希少性の原則が働いていました。
希少性の原則とは、手に入らないものは、より手に入れたくなる、というものです。
たとえば、期間限定だったり、数量限定だったりというものです。
いつの時代もそうですが、安請負は損することが多いのも希少性の原則が働いているからです。
だっていつでもやってくれるなら、依頼主は大した仕事ではないと思いますから。当然、支払いの出し渋りが起きやすくなります。
だから、、、
いかにして自分の希少性を大きくするか、それが仕事で立ち回る時に重要になってきます。
二宮尊徳はもっともな理由を持ち出して、自分の身分を超えた仕事を断ったのです。
そして、大久保公の中にある自分の価値を高めていったのです。
そうして、自分が大久保公と対等に話し合える状況を作ったのです。
まとめ
二宮尊徳が利用した希少性の原則は最も使われる心理テクニックの1つです。
希少性の原則を営業に戦略的に取り入れた手法をテイクアウェイセリングと言います。
これは報徳思想にはかかわりがありませんが、最も効果がある手法の1つです。
僕は報徳思想の手法をベースにしてほかの使える手法を組み合わせています。
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