報徳記をレビュー。報徳思想の原点となる二宮尊徳の子供時代を見る

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こんにちは、たけしです。

二宮尊徳は多くの村を借金地獄から抜け出させてきました。

その手法は報徳思想という考えがもとになっていました。

報徳思想は言葉通り、徳に報いることを大切にしていました。

二宮尊徳の報徳思想は子供時代の経験に大きな影響を受けています。

そこで二宮尊徳の自伝「報徳記」から子供時代の状況を見てみましょう。

目次

報徳記の「幼児の艱難のあらまし」を見る

二宮尊徳は1787年7月23日に今の神奈川県小田原市で生まれました。

家族構成は

祖父:名前は銀右衛門。節約によって二宮家をお金持ちにする。

父:名前は利右衛門。根っからの善人で村の人たちを援助しているうちに二宮家が貧乏になった。

母:名前はよし。父の利右衛門を懸命に支えた。

弟2人:名前は三郎左衛門、富次郎。父母の死を機に二宮尊徳とは別々に暮らす。

二宮尊徳の父の代に二宮家は他家の援助をしているうちに貧しくなった。

しかも1791年に地元の酒匂川が洪水になり、畑の作物がすべて流された。

これで二宮家はさらに貧しくなった。

この時、二宮尊徳は5歳です。

二宮尊徳が12歳の時、父の利右衛門が病気になりました。

治療をしていましたが薬代が工面できませんでした。

そこで手元にある家の畑を8万円で売ったのです。

父、利右衛門はこう言いました

「貧富は時の運でいたし方がないが、田地は祖先の田地だ。わしが病気をなおすためにこれを減らすことは、なんとも不孝の罪を免れない。だがそうかと言って医薬の謝礼はしないわけにゆかない。」

(報徳記 「幼時の艱難のあらまし」より)

父、利右衛門は根っからの善人でした。

そして、医者は二宮家が貧乏なのを知っていて、金の出所を聞いたのです。

父、利右衛門はこう答えました。

「まったく、わしのひどい貧乏はおっしゃる通りでございます。が、家が貧乏だからと言って治療していただいた御恩にお礼をしないということでは、どうして世間に顔向けができましょう。おたずねなさるからには本当のことを申さなければお気が済みますまいが、実は、貧乏のどん底といってもまだわずかばかり田地がありましたので、これを売ってお礼にしたのでございます。御心配には及びません。」

(報徳記「幼時の艱難のあらまし」より)

本当に根っからの善人でした。

この治療のおかげで父、利右衛門は病気が治りました。

しかし、2年後の1800年にまた病気にかかり、亡くなったのです。このとき二宮尊徳は14歳でした。

二宮家は一家の大黒柱を失ったのです。

二宮尊徳が14歳のころ、お祭りで大神楽が来ました。

大神楽が来たときは、舞をしてもらうなら600円、舞をしないなら70円を渡す習わしでした。

二宮家にはその70円するなく、居留守を使い大神楽が通り過ぎるのを待ったのです。

70円ほどのお金もなかったのです。

母親と子供3人の生活は想像を超えた貧しさだったのです。

二宮尊徳が12歳の時に氾濫した酒匂川は洪水があるたびに氾濫していました。

そのため、酒匂川の堤防工事がずっとしていたのです。

その人員は村の家ごとに出すのが習わしでした。

もちろん、二宮家は尊徳が工事に出ました。尊徳は12歳の時からこの工事に出ていたのです。

土木工事で12歳でできることなんてほとんどありません。

村の人たちも二宮家が貧乏であることを知っていたので、尊徳を一人分として数えました。

それが尊徳にはつらかった。尊徳はこう考えたのです。

「人は私が身内も少く、貧しいのを哀れんで、一人分の役に見なしてくれるが、自分の気持はそれをいいことにしてはいられない。ただ力の不足を嘆いても仕方がないから、ほかの働きでこれを補わなければならない。」

(報徳記 「幼時の艱難のあらまし」より)

尊徳は夜にわらじを作り、次の日の朝に村の人たちに配った。

そして、こう言った。

「私はまだ子供で一人の役に足らないので、ほかの人たちの力を借りて勤めています。その御恩を返すみちを考えましたがわからないので、ほんの志だけですがわらじを作って持って来ました。毎日私の力の足らない分を補ってくれる皆さんへのお礼です。」

(報徳記「幼時の艱難のあらまし」より)

村の人たちにわらじのお礼をするだけではありませんでした。

尊徳は工事にもしっかりと精を出し、コツコツとやりながら村の人たちと同じだけの働きをしていたのです。

父、利右衛門が亡くなった2年後、1802年に次は母、よしが亡くなりました。

当時、尊徳には2人の弟がいました。

親戚筋の人が会議の開いたのです。

その結果、尊徳は父の親戚が預かり、弟二人は母の親戚が預かることになりました。

父の親戚に預かってもらっていた18歳の時に二宮尊徳がお坊さんのお経を聞いたのです。

尊徳は初めて日本語のお経を聞き、その意味を理解しました。

尊徳はもう一度聞きたくて手持ちのお金1200円を出してお経を読んでもらったのです。

それから知り合いの和尚さんに観音経の話をしたら、和尚さんはその理解力に驚いた。

そして、出家することを進めた。

しかし、二宮尊徳は断ったのです。なぜなら自分の家の再興を1番の目標としていたからです。

二宮尊徳の幼年期で尊徳が学んだであろうこと

二宮尊徳の境遇はひどい者でした。今では考えられないほどつらい時期を過ごしたのです。

苦労ばかりの生活の中で、二宮尊徳が見出したことは何だったのでしょうか?

僕なりに話していきます。

前提として、二宮尊徳は二宮家の再興を目標としていました。

そのために必要なことを学ぼうとしていたはずです。

そして、二宮尊徳は自分の経験をもとに試行錯誤してきたのです。

祖父からは節約の重要性

報徳の中では、祖父との交友があったかは書かれていません。

おそらく、二宮尊徳が生まれた時には亡くなっていたのでしょう。

ただ、父や村の人が祖父がどんな人だったかは聞いているのが自然です。

祖父は農家としてはお金持ちでした。その秘訣は節約にあったのです。

これは報徳記にも書かれています。

二宮尊徳はこう思ったでしょう。

「もし二宮家を再興するなら、祖父と同じように節約しなければならない。なぜなら祖父は節約によってお金持ちになったのだから。」

父のお金の使い方を見て、自分の家がどんどん貧しくなるのを目の当たりしています。

二宮尊徳が節約に焦点を当てるのは当たり前なのです。

偶然かもしれませんが、報徳思想の教えには「分度」という節約の考え方があります。

二宮尊徳はどの村の復興をするときも、最初に「分度」を立てました。

分度とは、支出の計画を立てることです。

報徳記には書かれていませんが、祖父の話を参考にして分度という考え方を思いついたのでしょう。

父からは恩の返し方

父は根っからの善人でした。お人よし過ぎて自分の家が貧乏になっていくほどです。

最終的に二宮家は自然災害と父のお人よしが原因で二宮家はなくなりました。

しかし、二宮尊徳が父を尊敬していたのは報徳記のエピソードを見るに間違いありません。

では、父からは何を学んだのでしょうか?

それは「恩の返し方」だと思います。

父は二宮尊徳が小さいときに亡くなります。

しかし村の人は父から受けた恩を覚えていました。

だから二宮家が貧しくて苦しいときに、便宜を図ったりしていたのです。たとえば、酒匂川の土木工事での配慮がそうです。12歳の子供を1人として数えていたのですから。

これは父の行いが二宮尊徳に返ってきたと言えるでしょう。

しかし、父の行いが二宮家を貧しくしたのは事実です。

そこで二宮尊徳は「恩の返し方」を考えたのです。

それが「推譲」です。簡単に言うと「恩送り」です。

自分が得たもののうち、1部を他者に譲ろう。というものです。

恩送りすることで、巡り巡って自分に返ってくると二宮尊徳は考えたのです。

母からは懸命さ

母は大変だったと思います。お金持ちの農家に嫁いだと思ったら、貧乏で苦しい生活だったのですから。

しかし、母が二宮家を投げ出すことはしませんでした。

子供3人を抱えて懸命に生きたのでしょう。

二宮尊徳も家の稼ぎを得るために働きに出ていました。

母が亡くなるまで、母と尊徳の稼ぎで二宮家を維持できていたのです。

このつらい経験が二宮尊徳に大きな影響を与えたのは当然と言えます。

二宮尊徳はこう考えたのでしょう

「確かに辛い生活が続いている。しかし、母の頑張りと自分の稼ぎで家は大丈夫だ。自分のがんばり次第でどうとでもなる。」

10代の子供がこう考えるのは信じられません。

ただ、報徳思想の教えには「勤労」の重要性を唱えています。

働いた分だけ、見返りが自分にある。そう教えていたのです。

まとめ

誰だって幼少期の経験が自分の価値観に大きな影響を与えます。

二宮尊徳も例外ではありません。

報徳思想を学び、報徳記を読むと報徳思想は幼少期の経験がもとになっていると感じます。

報徳思想は道徳的に財を築く方法です。

実際に、多くの村がそれを実証してきました。

報徳思想の考え方は今でも使えます。

ぜひ報徳思想を学んでみてください。

このブログにも十分な情報を出しています。

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